まこちゃんへ② Y..の思い出

私には忘れられない思い出があります。

妹のY..は、私がいつもビクビクしているのを面白がっていました。

母親の言う事が嘘だとわかっていても疑う様子を見せただけで虐待が始まるので、なんでも信じて(その振りをして)、そして怒られた時に極端に怯えた様子を見せないと生き延びれなかったんです。怯えれば怯えるほど「効果大」と母親は満足し、早く虐待が終わりました。

そう言う私をY..は「お姉ちゃんはなんでもすぐ信じるから面白い」とはっきりと言葉にしていました。私の前で。

ある時家の中でY..が脈絡なく「お姉ちゃん、ごめんね」と言ってきました。私は習い性になっていた従順さで出来る限りの素直さで「ううん、いいよ」と即座に答えました。間髪入れずにY..は「?なにが?」とせせら笑いながら言いました。私は怒りもせず反撃もせず表情も変えず、勿論バカにされた!と言う素振りも全く見せず(正直な反応はあの家では母親の怒りに繋がるから)、黙っていました。

 

妹は一人暮らしをしていたんですが、ある時近くまで行ったので寄ってみました。妹はドアを僅かに開け、私を一瞥し、ひとこと「…雨降ってるんだ」と言い、そしてすうっとドアを閉めました。「あれ、お姉ちゃん。どうしたの?ごめん今夜勤明けで」と、普通の妹なら言うでしょうね。多分、夜勤明けで疲れていたのはわかります。でも彼女が発した言葉は、「雨降ってるんだ」だけ。挨拶も断りもそこにはありません。あんな侮蔑って、どうしたらできるんでしょうか。ドアを閉めたあとY..は侮蔑で家族の一人を傷つけた残虐の喜びに浸っていたのでしょうか?ハハオヤと同じように。

 

妹は鈍臭い私が嫌いでした。虐待、イジメ、向精神薬の事など知らなかったでしょうが。知らなかったとしても、妹は家庭内で力のあるハハオヤにすり寄って、自分だって母親が嫌いなくせに取り入って、「お姉ちゃんみたいになりたくない」と母親と仲良くしていた妹を許せない。でもその許せないという態度すら私は自分に禁じていました。

私みたいに幼い頃から暴力を受けていれば考えも違ったでしょうが、知らなかったからといって妹が私にとった態度は許される仕方のないことなんでしょうか、どう考えても異常ではないでしょうか。

 

そんな妹だってたった一人の同性のきょうだいです、若い頃は一緒に出掛けもしました。ある時、母親の理不尽さについてM駅の構内を歩きながら母親の社会人としての常識から外れた行いについて話しました。話しはじめて少しして、妹は突然、駅の構内で私を置き去りにして走り出しました。呆気にとられましたが、私はいつも通り、怒るでもなく呆然と一人で歩いて帰路につきました。家に帰ると妹はケロッとしていました。

 

そういえば、一緒にお芝居を見に行った事がありました。楽しみにしていて何日も前から「・・・・座の最寄駅は〇〇ね」と話し合っていました。私はその頃すでに向精神薬で普通の行動ができなくなっており、自分自身での確認や、嘘を言われている可能性があるのではないかと疑う発想そのものができませんでした。「疑う」と言う選択を誰にも強いられる事なく自らに禁じてしまっていました。Y..に言われるままその通りに当日その駅で降り、そこからどこの駅前にもある簡略地図を見ましたが、探せませんでした。もう開演の時間が近く、焦りながら通りかかる人に聞きました。そしたら「それは隣の駅ですよ」と。前日何故か最寄り駅の確認をした方がいいのではないかと言う気持ちになっていました。虫の知らせでしたが結局それもしませんでした。急いで電車に乗り直し、降車してから劇場まで走りました。席に着いた時には既に開演していました。Y..は一言「遅かったねえ」。私はいつも通り「なんで嘘教えたのよ!」とも言わず、怒りの感情すら持たず、黙って舞台を見続けました。

 

こう言う最も身近な身内からのイジメは、彼女が学生の頃から始まっていました。夜をとおしてのちょっとした長距離を歩くイベントに参加するがそう言う靴を持っていないのでお姉ちゃんのを貸して、と言うので、私のを履いて行ってもらいました。翌朝、穴が開き、もうとても履ける状態ではないスニーカーが捨てられるでもなく玄関の隅に置かれていました。

 

私のノロマさは幼い頃からだったので妹は見慣れていたはずですが、それでも憎らしかったのでしょう、あるヘマをやった時、その時は妹の一人暮らしのマンションに泊まりに行ったのですが、腹を立てた妹は「今日はお姉ちゃんは床の上に寝てもらう」と言いました。私は、どうして何を言われても完全緘黙状態だったのか自分でもさっぱりわからないのです。一言も言い返さず、表情も変えず、言われたまま、黙っていました。

 

中でも一番悪質だった事。昔お風呂は溜めた水をガスで温めるようになっていて、入れる温度になるまでは季節によっては何十分もかかりました。そんな時代の話です。大学から帰省していた妹の後にお風呂に入ろうとすると、お湯が10センチほどしかありませんでした。胸や肩まで浸かるほどあった浴槽のお湯をそこまで使う入浴ってどんなでしょうか。どうしたら底から10センチだけお湯を残した入浴ができるんでしょうか。10センチだけ残るように彼女の意地悪心でお湯を汲み出していたんでしょう。私はない力を振り絞って「どうして?」と妹に聞きました。妹は「お姉ちゃんお風呂に入んないと思った〜」と言うのです。私は黙っていました。その後どうしたかは憶えていません。

 

この前の手紙に書いた通り、私は学校で集団イジメに遭っていました。でもダメ元でいじめの事実を告げたハハから、突き落とされるような酷い言葉が返ってきてそこからどんなイジメも一人で耐えていました。まだ中学生だったのに。

これは妹が大学生だった時のことですが、彼女が、イジメに遭ったのでした。私の経験と比較すれば、抑制も大人の節度もあり残酷さもないものですがイジメはイジメです。

驚いたことに、ハハオヤはその妹に新幹線ですぐに帰ってくるように言ったのでした。帰ってきてY..はシクシクと泣き顛末をハハオヤに話し、傷を癒してから大学に戻りました。私は自分がほんの13歳だった頃にハハオヤからされたこととの落差に非常に混乱しました。

 

私は決定的な出来事の後(これについてはまた書きますね)、家を飛び出しました。私が幼い頃からずっと渇望していた家出でした。飛び出して1、2年して、私は私の苦しみの源である家族に居場所を絶対に教えなかったのですが、外からY..に電話をした事がありました。驚いた事に「どこに居るか教えて、私だってお姉ちゃんに会いたいよ」と言うのです。あれだけのことをしておいて「会いたい」とどうしたら言えるのでしょうか。

きょうだいの中で、浪人も留年もせずストレートで進学・就職し結婚もしているのはY..だけです。私はこんな社会なら、別にうまくやっていけなくても馴染めなくても恥ずかくもなんともないと思っています。

 

思い出しました、家を出てからもう10年以上経っていたのですが、妹にバケツの汚い水を2階の窓からかけられる夢を見ました。そして私はでっかい声で

「この家は意地悪な子がいじめられるおかしな家なんだよ!」と叫んで飛び起きました。生き埋めになった感情は底の方で死なずに蠢いていてそれが何かの拍子に力を得て土の中から飛び出したのでした。

 

今日はこの辺にします。また書きますね。それでは。