知らないくせに

親戚のよく問題を起こしていた男(私たちの従兄、父の姉の息子)、とハハオヤの話。

まだ小さい時、本当に小さかったので弟はまだ生まれていなかった頃だと思う、

私はお漏らしした罰とかで、スカートは穿いてたけど下着を穿かせてもらえず、

その格好でコタツに入っていたら、「その男の父親」が遊びに来て、私の隣に座った。そして私に

「あれ? パンツ穿いてないんだ」と言った。

ということは私の体に手を伸ばしてきて私のスカートの中を触ったということだけど

私は当時すでに虐待のせいで無感覚だったのか、

その時の状況が全く分からなかった。

出し抜けにそいつに「穿いてない」と言われた。

その後どうされたのか憶えていない。多分私は抵抗もしなかった。

抵抗は、誰に対しても絶対にしてはいけないとハハオヤに叩き込まれてたから。

たとえ私への猥褻行為でも絶対に抵抗してはいけない。

「悪いのは私」だから。お母さんも助けてくれない。

 

助けてくれないどころか、何かが起きた時

引き起こしたのは、悪いのは私だから、それが起きたことを知らせに言っただけで

ハハオヤからひっぱたかれるか罵られるかするから

自動操縦的に私は口を噤んだ。

怖いという気持ちも、危機を脱したいという本能も

反射的に遮断して、固まって、過ごした。

後年その固まった状態をグズだの変わってるだのと言って

ハハオヤと妹は、虐待で神経症になった私をせせら嗤っていた。

 

こういう危ない人間がうちに上がり込んで娘の隣に座ったら

普通の母親なら心配するだろう、追い返すわけにもいかないから

家事を切り上げて間に入って監視を始めるとか、

娘を別の場所に移すとか。

でもハハオヤは娘の安全なんか心配しない。

寧ろ何かいやらしいことが起こらないか期待してたと思う。

 

ここからは本題の、問題のある従兄のこと。

ある日の昼間、私と妹は母にお風呂に入れられていた。

昔のお風呂で、沸かすにもすごく時間がかかるし保温もできない。

父親も帰ってくるまでだいぶ時間がある真っ昼間に

ハハオヤは私達子どもも一緒に風呂に入れた。

私が湯船の外に立っていて、ハハオヤが妹とお風呂に浸かっていた。

その時裏口から突然、本当に突然、

その従兄がうちに入ってきて来ていきなり!浴室のドアを開け、

「あれ、風呂入ってたの?」とニヤついて言った。

ハハオヤも目を合わせてニヤついた。

 

ハハオヤは突然入って来たそいつを怒鳴りつけもしない。

「きゃー!」とも「何をするんですか!」とも言わず

自分の裸を隠そうともせず

ただ、ニヤッと笑って無言で上目遣いでそいつと目を合わせていた。

 

私は子供だったけど、この家はこんな異常な事をなぜすんなり受け入れるんだと思ったよ。

 

ハハオヤは子供はいくらでも騙せると私達が中年になってからさえ考えていたし、

何が起きたかをこの子達が後でお父さんに話すことも、

こういう場面を憶えていることも無いと踏んでいただろう。

ハハオヤはその男の来訪を事前に知っていて、

その時間に合わせて入浴していたと思う。

そして妹や弟は目撃者としては幼過ぎて、

ハハオヤのこういう行動に接していたとしても

何が起きているのかを理解していなかったと思う。

私は、ハハオヤのこういう猥褻なところに猛烈に反発していた。

 

でも妹弟は、何も知らない。

 

私がハハオヤから暴力を受けていたり、

成長してからは私をオカシクした当のハハオヤに

精神科に連れて行かれ向精神薬大量処方という生き地獄に放り込まれことも全く知らない。

だから、自分たちには優しいハハオヤに、猛烈に立ち向かった私を敵対視し攻撃した。

ハハオヤは、荒れ狂う私を見て、残虐の喜びが止まらなかっただろうな。

私を虐待すればするほど、私の精神状態がひどくなり、

何も知らない妹弟がますます自分に同情してくれるから。

そして私はますます追い込まれる。

そういう悪循環をハハオヤは悪魔のように喜んでいたんだろう。

妹弟、何も知らないくせに。

ふざけんじゃないよ。私が受けた100分の1の虐待も受けた事ないくせに。

 

そんな家庭でも健気に頑張っていたが

創造的な作業をしてそれを生活の糧にして行きたいと思っていた私。

小さい頃から、誰に言われるでもなく「おはなし」を書いてみたり

(ハハオヤに自分のお手製の絵本を評価してもらいたくて見せたら

「お母さんに褒めてもらおうと思って自分で作ったなんてウソを吐く!」と怒られ

小学校に上がる前に絵本を作るのはやめた)

絵を描く楽器を弾く、そういう作業に気持ちの高揚と最高の幸せを感じていた私。

進学校にも上位の成績で合格した私。

虐待家庭にいたにも関わらず、ほんとうに頑張っていた。

高校に入学してから鬱状態になり勉強に集中することも考えをまとめることもできなくなっていた。だから3年間、勉強した記憶が殆ど無い。

 

虐待と向精神薬の背景も、同じ家族であるにも関わらず気づかない妹。気付かないとしても、その為に変調を来した実の姉を、替え歌でバカにするか?

母親の片棒を担ぎ私をバカにしまくった妹、成績も私からみればパッとしなかったのに

大学を卒業し若い頃は海外旅行に毎年のように出かけていた。職場のいつも一緒に行動する友人を家ではぎょっとするほど侮蔑的な言葉でバカにする妹。実習先や職場で接したしょうがい者やお年寄りのモノマネをして笑い倒す妹。私はこれって笑わないといけないのかな?と聞いていた。ハハオヤは一緒に笑っていた。

こんな妹がハハオヤに大事にされていた。帰省しているはずなのに朝から姿が見えないと思ったら、夜デパートの袋をいっぱい抱えて帰ってくる(彼女たちは池袋がお気に入り)、夜中に仲良く、家のすぐそばを通った屋台のラーメンを、自宅から丼を持って行って買い家で一緒に食べたと妹が言った時「えっ?お母さん、そんなことする人なんだ」とビックリした。私のハハオヤと妹の母親は別人なんだ。

 

私の芸術の道? とんでも無い。私は妹が大学に入学した頃には、ハハオヤに引っ張られて精神科で向精神薬をのまされて家の中でまっすぐ歩けないほどデロンデロンになってたんだ。芸術どころじゃなくなったんだよ。

一時は私を廃人にした家庭。私はこんな家庭を、懐かしいとか恋しいとか、帰りたいとか思った事はただの一度も無い。小さい頃から。

 

あの向精神薬処方さえなければ、なんとか乗り切って進学し希望に近い仕事に就き、今頃安定した生活を送っていたかもしれない。あの処方からが生き地獄だった。私はそんな家族から奇跡的に脱出し、命を断つ事なく頑張ってきた。

猫に気遣いした、私は常に悪者だから

私も妹も20代になっていたその頃、私は小さい頃からの母親の虐待と、虐待犯張本人であるハハオヤに引っ張っていかれた精神科で投与され始めた大量の向精神薬でアタマガオカシクなっていたから、まともな判断は不可能だった。

ウチによく遊びにくる半野良ネコが、私が夕飯を作っていた時に入ってきた。

その時魚一尾を俎板に載せていた。

半野良に俎板の上の魚を要求され、私は何一つ断ったり遮ったりしてはいけないのだと

の強迫観念に見舞われ、咄嗟に猫に求められるままにした。

丁度そこへ、ハハオヤのいい子・妹が帰ってきた。

私が猫にした事を見て

「バカじゃないの」

と言い放った。

 

彼女の卒論のテーマは「家庭教育」だったそうだ。

それを聞いた時意外だった。

へ=====、問題意識や関心はそこにあったんだ?

 

なのに私がハハオヤの虐待でオカシクなったと、想像もできないんだね。

 

幼い頃

その時私は5〜7歳だったと思う。

祖母の家に泊まりに行って、広い部屋にみんなで布団を並べて寝た。

私の隣にいたのが4歳上の従兄だった。

 

普通こういう時、たとえ子供でも何かあるといけないと

母親が間に入って寝てくれたり、女の子は女の子で寝かせたりするだろう。

うちのハハオヤは違う。

誘惑的な(私に取っては迷惑な)雰囲気に子供を放り込むのが好きで

別の年の近い従兄と二人きりで出かけさせようとしたり

もう嫌がって一緒に入らなくなって久しかったのに、「今日はお父さんと一緒にお風呂に入ってもらう」と命令したりする

全く子供を使って何をしたいのか、狂っているとしか思えない母親だった。

一方で子供が恋愛やファッションに主体性を見せるといやらしい汚らわしいとはっきりと言葉に出して貶した。

 

夜中に目が覚めた、従兄が私の局部を触っていたのだ。

小さい声で話しかけて、私の局部は何かがおかしい、

なので・・・しなければいけない、と言っていた。内容はもう思い出せない。

 

これは大変なことなのに、そしてまだ小さかったのにこの事を私はハハオヤに言って

助けてもらうことができなかった。

すでにその頃、虐待が始まっており、ハハオヤは私の味方でも保護者でもなく

何かあればそれは私のせいで、叱られるのは私の方だという調教が完了していたんだ。

 

私はほとんど30歳に近くなった時に、黙っているのをやめて、この事を訴えた。

「紀彦(仮名・としひこと読む)ちゃんにこんな事をされたんだ!」

そしたらハハオヤは、なんて言ったか?

 

「あんたそれを岡崎(仮名)のおばちゃん(母の姉、猥褻行為に及んだ奴の母親)に言ったらだめ! 言ったらおばちゃん、自殺するよ!」

 

私はこんな精神構造の母親のいる家庭で、なんとか心の平衡を取り戻そう、本来の自分に自力で戻ろうと、一人の味方もなく頑張って頑張って頑張って生きていた。

因みに、言ったら最後自殺するとハハオヤが言った猥褻な従兄の親である叔母にその後息子の淫行を訴えた。自殺?とんでもない。「じゃあどうしろって言うのよ!」と言い放った。「悪かった」の一言もなかった。スゲー姉妹だな。

 

思ったけど

何ヶ月も自分のお腹の中にいた実の子を

自分のフラストレーション発散のために

気が狂うまで追い込んで

気が狂ったらそれを自分の社会進出に利用する親って

すごくないか?

それ以外の生き方ができなかった

破壊的な行動しかできなかったために人を傷つけ、態度で場を荒らし、

そして次の場所に行き同じことを繰り返してきた。

虐待と薬害でそれ以外の生き方が出来なかった。

まこちゃんへ ③

まこちゃん

 

過去を振り返って、何十年も前もそしてほんの数年前でも、

あの時なんであんな選択をしてしまったんだろうと思うことがたくさんたくさんあります。

まるで私は、その時々で自ら不幸になろうとしていたかのようです。

せっかく楽しく面白く生きていけそうだったのに。そうなる直前で、破滅的な選択をしていました。

 

母親は長女である私を使って「人間を心理的にどこまで追い込めるか、追い込むことによってどれだけ精神に変調を来すか」の人体実験を行ってるかのようでした。それほど残酷でした。

 

もうあの怪物の手が届かないところまで逃げてきたのに、その時と同じ轍を、私は踏んでしまっているのです。そしてそんな狂った選択を繰り返す自分を、引き裂きたくなります。狂ってる、狂ってる、狂ってる。

その都度オカシナ訳のわからない狂った選択をしてことに関して、今となっては、ハハオヤの虐待だけでなく、大量処方されていた向精神薬の影響が残っていてそれは私自身ではどうしてもコントロールできなかった仕方なかったのだと思います。気付いたからにはこれから岐路にたった時に自分にとって良い選択をするよう、修正していけますね。

 

いちばん苦しい時はもう過ぎた。今よりももっともっと大変だった時があったのにちゃんと乗り切った。だからこれからもやっていける。

 

そう、もう削除したけどアドレス帳の母の連絡先は、氏名を母と書かず「キチク」としていました。母とか氏名とか書くことは、とても感情が受け付けないのです。

 

ではまたね。

 

まこちゃんへ② Y..の思い出

私には忘れられない思い出があります。

妹のY..は、私がいつもビクビクしているのを面白がっていました。

母親の言う事が嘘だとわかっていても疑う様子を見せただけで虐待が始まるので、なんでも信じて(その振りをして)、そして怒られた時に極端に怯えた様子を見せないと生き延びれなかったんです。怯えれば怯えるほど「効果大」と母親は満足し、早く虐待が終わりました。

そう言う私をY..は「お姉ちゃんはなんでもすぐ信じるから面白い」とはっきりと言葉にしていました。私の前で。

ある時家の中でY..が脈絡なく「お姉ちゃん、ごめんね」と言ってきました。私は習い性になっていた従順さで出来る限りの素直さで「ううん、いいよ」と即座に答えました。間髪入れずにY..は「?なにが?」とせせら笑いながら言いました。私は怒りもせず反撃もせず表情も変えず、勿論バカにされた!と言う素振りも全く見せず(正直な反応はあの家では母親の怒りに繋がるから)、黙っていました。

 

妹は一人暮らしをしていたんですが、ある時近くまで行ったので寄ってみました。妹はドアを僅かに開け、私を一瞥し、ひとこと「…雨降ってるんだ」と言い、そしてすうっとドアを閉めました。「あれ、お姉ちゃん。どうしたの?ごめん今夜勤明けで」と、普通の妹なら言うでしょうね。多分、夜勤明けで疲れていたのはわかります。でも彼女が発した言葉は、「雨降ってるんだ」だけ。挨拶も断りもそこにはありません。あんな侮蔑って、どうしたらできるんでしょうか。ドアを閉めたあとY..は侮蔑で家族の一人を傷つけた残虐の喜びに浸っていたのでしょうか?ハハオヤと同じように。

 

妹は鈍臭い私が嫌いでした。虐待、イジメ、向精神薬の事など知らなかったでしょうが。知らなかったとしても、妹は家庭内で力のあるハハオヤにすり寄って、自分だって母親が嫌いなくせに取り入って、「お姉ちゃんみたいになりたくない」と母親と仲良くしていた妹を許せない。でもその許せないという態度すら私は自分に禁じていました。

私みたいに幼い頃から暴力を受けていれば考えも違ったでしょうが、知らなかったからといって妹が私にとった態度は許される仕方のないことなんでしょうか、どう考えても異常ではないでしょうか。

 

そんな妹だってたった一人の同性のきょうだいです、若い頃は一緒に出掛けもしました。ある時、母親の理不尽さについてM駅の構内を歩きながら母親の社会人としての常識から外れた行いについて話しました。話しはじめて少しして、妹は突然、駅の構内で私を置き去りにして走り出しました。呆気にとられましたが、私はいつも通り、怒るでもなく呆然と一人で歩いて帰路につきました。家に帰ると妹はケロッとしていました。

 

そういえば、一緒にお芝居を見に行った事がありました。楽しみにしていて何日も前から「・・・・座の最寄駅は〇〇ね」と話し合っていました。私はその頃すでに向精神薬で普通の行動ができなくなっており、自分自身での確認や、嘘を言われている可能性があるのではないかと疑う発想そのものができませんでした。「疑う」と言う選択を誰にも強いられる事なく自らに禁じてしまっていました。Y..に言われるままその通りに当日その駅で降り、そこからどこの駅前にもある簡略地図を見ましたが、探せませんでした。もう開演の時間が近く、焦りながら通りかかる人に聞きました。そしたら「それは隣の駅ですよ」と。前日何故か最寄り駅の確認をした方がいいのではないかと言う気持ちになっていました。虫の知らせでしたが結局それもしませんでした。急いで電車に乗り直し、降車してから劇場まで走りました。席に着いた時には既に開演していました。Y..は一言「遅かったねえ」。私はいつも通り「なんで嘘教えたのよ!」とも言わず、怒りの感情すら持たず、黙って舞台を見続けました。

 

こう言う最も身近な身内からのイジメは、彼女が学生の頃から始まっていました。夜をとおしてのちょっとした長距離を歩くイベントに参加するがそう言う靴を持っていないのでお姉ちゃんのを貸して、と言うので、私のを履いて行ってもらいました。翌朝、穴が開き、もうとても履ける状態ではないスニーカーが捨てられるでもなく玄関の隅に置かれていました。

 

私のノロマさは幼い頃からだったので妹は見慣れていたはずですが、それでも憎らしかったのでしょう、あるヘマをやった時、その時は妹の一人暮らしのマンションに泊まりに行ったのですが、腹を立てた妹は「今日はお姉ちゃんは床の上に寝てもらう」と言いました。私は、どうして何を言われても完全緘黙状態だったのか自分でもさっぱりわからないのです。一言も言い返さず、表情も変えず、言われたまま、黙っていました。

 

中でも一番悪質だった事。昔お風呂は溜めた水をガスで温めるようになっていて、入れる温度になるまでは季節によっては何十分もかかりました。そんな時代の話です。大学から帰省していた妹の後にお風呂に入ろうとすると、お湯が10センチほどしかありませんでした。胸や肩まで浸かるほどあった浴槽のお湯をそこまで使う入浴ってどんなでしょうか。どうしたら底から10センチだけお湯を残した入浴ができるんでしょうか。10センチだけ残るように彼女の意地悪心でお湯を汲み出していたんでしょう。私はない力を振り絞って「どうして?」と妹に聞きました。妹は「お姉ちゃんお風呂に入んないと思った〜」と言うのです。私は黙っていました。その後どうしたかは憶えていません。

 

この前の手紙に書いた通り、私は学校で集団イジメに遭っていました。でもダメ元でいじめの事実を告げたハハから、突き落とされるような酷い言葉が返ってきてそこからどんなイジメも一人で耐えていました。まだ中学生だったのに。

これは妹が大学生だった時のことですが、彼女が、イジメに遭ったのでした。私の経験と比較すれば、抑制も大人の節度もあり残酷さもないものですがイジメはイジメです。

驚いたことに、ハハオヤはその妹に新幹線ですぐに帰ってくるように言ったのでした。帰ってきてY..はシクシクと泣き顛末をハハオヤに話し、傷を癒してから大学に戻りました。私は自分がほんの13歳だった頃にハハオヤからされたこととの落差に非常に混乱しました。

 

私は決定的な出来事の後(これについてはまた書きますね)、家を飛び出しました。私が幼い頃からずっと渇望していた家出でした。飛び出して1、2年して、私は私の苦しみの源である家族に居場所を絶対に教えなかったのですが、外からY..に電話をした事がありました。驚いた事に「どこに居るか教えて、私だってお姉ちゃんに会いたいよ」と言うのです。あれだけのことをしておいて「会いたい」とどうしたら言えるのでしょうか。

きょうだいの中で、浪人も留年もせずストレートで進学・就職し結婚もしているのはY..だけです。私はこんな社会なら、別にうまくやっていけなくても馴染めなくても恥ずかくもなんともないと思っています。

 

思い出しました、家を出てからもう10年以上経っていたのですが、妹にバケツの汚い水を2階の窓からかけられる夢を見ました。そして私はでっかい声で

「この家は意地悪な子がいじめられるおかしな家なんだよ!」と叫んで飛び起きました。生き埋めになった感情は底の方で死なずに蠢いていてそれが何かの拍子に力を得て土の中から飛び出したのでした。

 

今日はこの辺にします。また書きますね。それでは。

 

まこちゃんへ

まこちゃん

 いつも私の話を聞いてくれてありがとう。
 ここに書くのはすべて本当で私が実際に体験したことです。誰かに知っておいてほしい、証人になってほしい、そうしなければ本当の犠牲者、被害者だった私が悪者にされて終わります。それだけは耐えられません。どうかお読みください。

 私が虐待にあっていたことはいつも話している通りです。物心ついた頃にはもう虐待が始まっていました。「全ては自分のせいだと思え、周りで何か悪いことが起きたらとにかく自分のせいだと思え」と言われ続けました。
 小学校1年生の時、ボールをぶつけられたら「ぶつけた子が、私のせいで罪悪感を抱いてしまう」と慌ててその場から走り去りました。
 そのもっと前、3歳の時に交通事故に遭いました、気がついたら病院にいて、医者に木槌で膝を叩かれ「痛いか痛くないか」と訊かれました。私は「痛くない」と言った後(叩かれていると言う事は痛いと言わなくてはいけないと言うことか)と思い「痛い」と言い直しました。「どっちなんだ」と医者が怒ったように言いましたが、自分自身がどうなのかよくわかりませんでした。
 小学2年生頃には自分の本当の感情や欲求がなんなのかわからなくなっていました。
 この事を後年友達に話して「それは虐待だ」と言われました。その時まで考えてもいませんでした。あの家庭で生きるために、出来るだけ何も感じないようにしていましたから。

 母親による身体的な暴力は勿論、心理的な追い詰めは異常でした。それで小学生の時分からノイローゼでした。一人で畳の上で「わかって、お願い、信じて」と、のたうちまわりながら髪をかきむしりながらうめいていました。勿論誰もいないところでです。母親に見つかったら何をされるかわからないから。
 きょうだいさえその事は知りません。だからT..もY..も、私が虐待で発狂したのではなくて、わがままで自分勝手な悪い人間だから母親に猛烈に楯突いたと思っています。だから私を責めています。 
 そうじゃない、私はきょうだいの誰もされたことがない猛烈な虐待を日常的に受けていただけだ。
 妹弟が「私が母親から虐待を受けていた事」を知らなかったと気づいたのは家を飛び出して7年経ってからです。
 ある日ふと、思い出しました。いつも私ばかり厳しく叱られる、どうして妹弟にはそうしないのかと抗議するといつも、母親が「いつも誰も見ていないところで厳しくしている」と言うったのを。「あれは、私への虐待のことだ。母親はをいつも誰もいないところでやっていたんだ」と気づきました。

 私は耳が真紫になるほど強く殴られ、一挙手一投足も監視され、服装もいつも「みすぼらしい」ので同級生の間で話題になっていました。「あの子って学校が休みの日まで、あんな服装してるの?」とわざと聞こえるように言われたことを憶えています。

 まだ小学生の時、おばさん2人と母親と一緒に街を歩いていました。
 突然母親が憮然として私に「止まりなさい」と言い、路上で私の比較的新しいサンダルを脱がせ、母親の古いサンダルと交換させられました。私は、ブカブカのサンダルを引っかけて、母親達に従って歩き続けました。小学生だった私のサンダルは体の大きい母親にはきつかったはずです。あれは一体なんだったんでしょうか。おばさんたちもそんな母親を止めてもくれませんでした。私は呆然として無表情のまま歩き続けました。

 プールに行った時も、何も囲いのない、周りに人のいるところで水着から服に着替えさせられました。「ほら、早く着替えなさい、どうせあんたの着替えるとこなんか誰も見てないんだから」と言われながら。周りで見ている人も誰も母親を制止してくれませんでした。
 私はたった一人でタオルと服で自分の体を隠しながら頑張って着替えました。まだ小学生だったけど歯を食いしばって頑張った、頑張って頑張って頑張って頑張った。妹にもバカにされるような子供だったけどそれでも私はたった一人で歯をくいしばって頑張った。ほんとうにほんとうに頑張った。

 ずっとあの家で、私だけが、T..もY..も生涯経験することのない猛烈な虐待を受けていました。T..もY..も学校で厳しく禁じられているものさえ与えられていた一方で私は学校で必要なものも家で禁じられたり取り上げられたりしていた。
 当たり前の感情表現を禁じられても、なんとか正常に戻ろうとする感情の弾力で、時には猛烈に感情を爆発させました。それを見てか、影で行われている虐待を知らないT..もY..も私を憎むようになり、母親はますます、かわいそうなお母さんとして同情を集め、その対比でますます私は狂って行きました。

 母親に折檻、監視されているため常にビクビクしていたので学校でもイジメのターゲットになりました。
 母親が私の味方をしてくれないのはわかっていましたが、非常に恐ろしい目に遭っていたので「実は、学校で集団イジメに遭っている」と思い切って母親に打ち明けたところ「いじめられるような事をしたんだな、なんて悪い子だ」と突き放されました。イジメる相手に感謝しろとまで言われました。その時から家の外で起きた事を一切母親に話さないことに決めました。まだ13歳でした。

 教師に両足首を掴まれ廊下を引き摺られても、ただお菓子を買いに行っただけなのに「酒を買いに行った」と嘘を広められ学校で孤立しても、一人で歯を食いしばって頑張りました。どんな不当な目に遭っても母親に相談できないから、言えばズタズタに傷つけられるから、自分一人で歯を食いしばって、私は頑張った。

 この家にこれ以上いては気が狂うと、必死で勉強して進学したのに、彼らからすればそれも私のわがままです、命をかけて勉強したのに。虐待から逃れるために必死だったのに。それだけなのに。頑張って頑張って頑張って勉強したのに。

 虐待は日常だったので細々とした事は山ほどあります。上にあげた事は何百とある出来事のほんの一端です。これから事実を共有してもらうためにも少しずつ書きます。そうでなければ私は悔やんでも悔やみ切れません。死んでも死に切れません。

 母親の虐待で精神錯乱状態になった私は人生で大切な、生きて行くために色んなことを学ぶ時期を、まこちゃんが「憧れている」と言っていたあの母親にぐちゃぐちゃにされました。私がそんな目に遭っていた事は、誰も知らない。

 私はつい2、3年前まで、私の精神異常は偏に母親の虐待のせいだと思っていましたが、ある時薬害の本を読んで初めて、向精神薬が脳に長期に渡って修復不可能なほどの悪影響をもたらすと知りました。

 でもすごいのは、普通は向精神薬によって起こる異常行動が、私の場合、母親の虐待だけで起きていた事です。私は「ひどい娘に苦しむ母親として同情されたい」母親に、全部で5箇所の病院・クリニックに連れていかれました。凄いのはその全部で判で押したように異口同音に先生たちから「あのお母さんでは、あなたがそうなるのも無理はない」と言われたことです。それだけ母親の虐待は凄まじかった。なのに私の人生が強烈な悲しみの蓄積だったことを、家族さえも、誰も知らない。誰も知らない。誰も知らない。
 
 記録を残すために、私に着せられた罪を晴らすために、少しずつ書いて行きます。この事をできるだけ他の人にも話してください。親戚でもT..にもY..にも。

 読んでくださってありがとう。もしまこちゃんが理解してくださらないなら他を当たります。
 ただどうか「親のことをそんな風に言うものではない」とだけは仰らないでください。それは私に対する魂の殺人です。想像を絶する体験をしてきた私のことをどうかほんの少しでも想像して見てください。お母さんはあなたのことが可愛くてやったというなら、気が狂うまで厳しくしたりしますか。親は何をやっても許されていいのですか。親のことをそんな風にいうものではない、と言いたいなら、私と同じことを、せめて上に書いたことだけでも経験してみてください。
 本当に、私の人生に起きたのと同じことを経験して見てください。たった一人で耐え抜いて見てください、それから言ってください。

それでは、どうぞお元気で。

 

憎んでいい…自分の幸せだけを

自分を誰よりも苦しめ痛めつけた親のことは憎んでいいし許さなくていい。

もっと言えば、憎むことは自然で当たり前で、憎まない許すと自分に言い聞かせることは自分をひどく傷つける。

 

それとはちょっと矛盾しますが、過去の傷、あの家に生まれさえしなければ、あの時こうしていれば、と言う考えからは離れて、自分の幸せだけを考えて一日過ごしてみてください。あなたは誰もできないような事を経験し一人で頑張ってこられたのですから、ただただ自分を喜ばせ自分を楽しませるだけの一日を過ごしてください。

乱射事件と向精神薬

YouTubeチャンネル Medicating Normal より

テレビで銃乱射の報道があると、いつも「いつ乱射犯が服用していた向精神薬について言及するんだろう」と思うのですが、

との質問に

Selma J. M. Eikelenboom-Schieveld(法医学)はこの様に答えている。

乱射事件の陰には向精神薬がある。

以前から向精神薬の影響については言われてきた。

人を殺すのは銃ではなく向精神薬を服用している人、

つまり向精神薬が人を殺している。

病理学者は違法薬物は検査するのに処方薬については調べない。

米国では精神衛生の問題はそのまま向精神薬の問題。

事件を起こした人たちは向精神薬を服用しているか減薬途上にある。

服用者の精神状態というのは苛烈である。

この様な事実にも関わらず、乱射犯の向精神薬服用について調査しようという動きはない。

調査すれば、それはパンドラの匣を開けることになるからだ。

 

向精神薬がどれほど人を狂わせるか」についての短い動画です。

敷居が低くなり、不安で困っていれば抵抗なく診察、処方を受けられるかもしれませんが、その後の人生にどれだけダメージがあるかは、医者は知っていても言いません。

ご本人には何も問題がないのに学校でイジメにあった為に精神科に助けを求め、そこから服用による地獄が始まる場合もあります。

脳へのダメージは服用を中止しても長く続くとも言われています。

 

英語を読める方へ

サンプルだけでも一度ご覧ください。

Toxic Psychiatry

Your Drug May Be Your Problem

Medication Madness

 

ある男性の例

ある男性の体験談です。

 

虐待を受けておりそのせいでかなりの情緒不安定が幼児期より続いており

神経症は成長するにつれひどくなります。

病的支配欲を持ち彼が幼い頃から折檻を繰り返してきた父親が、

10代の終わりに彼を病院に連れて行きますが

それが不幸の始まりでした。

大量投与で有名な病院でした。

 

40代で彼自身の意志で薬をやめます。

恐怖心で隷属させられ、普通の生活を送ってこられなかった彼の

溜まりに溜まった怒りのエネルギーが火山のマグマのように噴出したのでした。

医者も家族も敵であるため、完全に単独で

医師のアドバイスもカウンセラーのサポートもなくいきなり向精神薬を断ちます。

(これはかなり危険なことのようですが)

 

虐待と、医療過誤による当たり前のことを経験できなかった青年時代

そこから断薬に至るまでの生き地獄のような生活は

ここには書き切れませんが

虐待を経験してこられた皆様はご自分の苦しみとして

想像することができると思います。

 

彼は当初、自身の極端な情緒不安定と青年期に始まった奇行は偏に

父親の虐待によるものだと思っていました。

自分を統御できないほどの突発的奇行を引き起こすほど

父親の虐待はひどかったのだと、人り苦しんでいたそうです。

彼は40代半ばで初めて向精神薬による害を知りました。

自分の破滅的な人間関係も定職に落ち着けない取り返すことのできない

人生の時間も、父親だけでなく薬も加害者だったと知ったのでした。

 

彼のような人は非常に多いのではないのでしょうか。

 

薬に頼ったばかりに、袋小路に入り込み

肉体も精神も回復不可能になってしまった。

気づいた時には遅かった、そんなことになって欲しくはありません。

 

因みにこのお話の彼は、あり得ない偶然と内部から絞り出したエネルギーで

なんとか立ち直り、今は普通の生活を送っています。

振り返ると

虐待を受けた方は皆、振り返ったときに

思えば遠くに来たものだ

自分はほんとによく頑張った

と思うんだろうな。

 

もう一度同じことをやれと言われても絶対にできない。

そこを自分は頑張った。

虐待がなかったら送ることのできた人生を思うと

悔しくやりきれなくなる。

でも大人になってから

もっともっともっと大変な思いをしている人がいることを知って

ここまで生きてきたんだから

その人達の分までなんとか踏ん張らなくてはと思えるようになった。

 

思えば遠くへ来たものだ。

価値基準の起点が自分じゃないと苦しい

作り物でない、田舎の自然の中で遊ぶことなく

早くから受験産業に浸らされてこども時代を過ごした人は

起点を自分の内部に戻すのに時間がかかるかもしれません。

でも産みの苦しみはつきものです。特に良い変化には。

自分にとっての幸福と、人様から見た成功は別物です。

前者を感情は求めているのに、人の採点を常に待っている生活を送る人生は常に虚しさが付き纏う。

 

感情がストレートに行動に結び付く人生はどれだけ楽で楽しいだろう。

 

社会で屈辱を受けず不快な思いをしない立場と感情が求めているものの折衷点を見極め

自分を大切に守りながら生きていくんだと決意することが変化のきっかけになると思います。

 

親や配偶者や所属する組織のために存在するのをやめて

自分の感情を起点に。

 

人の価値観を生きてあげる前の、こどもの頃の自分のように生きる第一歩だと思います。

 

自然の中に身を置いてみる。木々の間で無音の中、30分座っているだけでもいい。

小さい時に好きだったことをやってみる、思い出してみる。

ほんとはどうしたかったかを思い出す。

本来の自分に戻る作業を続ける。